nimem’s blog

雑念の墓場

風邪と政治的ロマン主義

久しぶりのブログ更新、文章を書くことすら久しぶり。ここ数ヶ月あったことを記録しておこうと思ってブログを書く。

前の記事に就活やめた云々書いていたけど、結局就職決まりました、はい。高貴云々偉そうなことを書いておきながら、9月ごろから就活をエージェント使って始めて三週間でいいところに内定もらったからそこに決めた。10月に内定式をズームでやって、オフラインの会社見学会に参加して希望調書を出して今ここ。院試も願書出してたけど、受験する前に辞退して就活に専念したかたちかな。

なんで突然あんだけディスってた就活しだしたかは親にも色々聞かれたけど、要は大学院に行っても別に研究職目指しているわけでもなく、ただ就活の時期が二年ほどあとにずれて、自由な時間を二年間ほど確保するってだけで、結局のところ自分が就職してそのあと働きながら生きていくってのには変わりないことに気がついたからだね。僕の場合は文系でしかも哲学っていう、別に大学院に行かなくてもいくらでも自分で学ぶことができる分野だったから、別にいいかなと思った。それに前の記事みたいなことを考えていたわけだけど、それって結局のところ先送りにして自由のなかに逃げてるだけだよねってこと。現実から目をそむけて、理想だのなんだのに生きるのって、聞く限りは素敵だけど、生きるってったって今の自分なり大学院に行った自分なりも結局は親の金なり借金なりに頼り切ってるだけで、言ってることと考えていることがだいぶ乖離してるよなと思うようになった。生きるってことそのものをわりと現実的に考えるようになったってことかな。ロマン主義というか、夢を追いかけるとか理想の探求みたいな、地に足をつけていない生に勝ちがあるのかってことを問うてみると、まあどうなんだろってね。少なくとも地に足をつけて自分のちからでサバイブして生きていくっていう過程を経ずにああだこうだ言ってることに重みを感じなくなった。きちんと現実に働いて生き抜いてみようと決めたわけです。

就活で感じたこと考えたことは、わりと少ない。よく言われるような、それこそユーチューブで大学一年とかそのあたりに見ていた「就活狂想曲?」みたいな狂気じみたことを感じることはなかったかな。全部オンラインで済ませられたっていう、コロナのおかげ?の影響もあるんだろうけどね。自己PRとかガクチカ?を山程書かなきゃいけなかっり、わけのわからない適性検査なるものを山程受けさせられるのは確かにおもしろくはないけど、取り立てて何かを主張しないといけないほどおかしなことではなかったかな。就活は一種の通過儀礼だと認識して、意味があるとかないとかの次元とはかけはなれた、それこそ宗教的な儀礼だとでも思ってれば笑いいんじゃないかな。ただ面接はいろいろと勉強になったかな。どうのこうのいって経営する立場にある人たちと話ができる機会って貴重だと思うし、いろんな人と面と向かって長い時間話ができたのは、ふつうにおもしろかったかな。緊張はしたし、弱いところ痛いところ疲れたりはしたけどね。まあ僕の場合は就活ガチ勢とかじゃないし、大企業を目指していたわけでもないから、どう言えばいいかな、大学受験の延長で大企業や有名企業に入ることで自分の価値を証明しないとみたいなことを考えている人間にとっては就活は大変なんじゃないかな。そういう人たちのために、大学受験産業があるのと同じように、就活産業もちゃんとあるから、そういう産業のなかでお金と時間を消費して対策を講じて就活に望む市場があるんだと思う。ただ僕はわりとそういういわゆるビジネス的な自己啓発的なことに熱心な人たちを哲学的にわりと冷めた目で見る傾向があるけど、社会の中で生きていくことを考えると賢い(巧緻)な人たちだと思うな。だって結婚とか考えたときにはやっぱり金がいるし、金を稼ぐとなると、営業で歩合でばりばりを除けばやっぱ大企業の幹部候補枠で入社して出世するコースになるでしょう。文系なら尚更ね。官僚ですよ。より多くの人間を管理する権限を持つ、それだけ地位と収入が増える。官僚の選別には選別のエクスキューズがいる、それが試験だし、学歴だし、そう考えると大企業に入りたい人たちの就活は、仕事選びというよりは科挙みたいなごりごりの官僚選抜試験って風貌を帯びてくるよね就活は。そういう就活はストレスフルなわけですよ。大学受験より過酷という。

就活の話はもういいや笑。もう終わったしね。就活が終わったあとはエペにはまってた。ランクマでプラチナまで3日連続で一日中エペやってたな。FPSはてかゲームはどうにも目が悪くなるし、毎日欠かさずにエイム練習しないといけないしでもうやらないと思うから大学時代のうちに中級者くらいにはなっておきたかったんだよね。ほんとはダブ半爪痕くらいやりたかったけど、まあ無理でしたわ笑。プラチナまで行けば少なくとも初心者ではないっていうか、エペのたいていの技術は習得してるからここまでやればまあ納得してやめられるかなってことでね。プラチナ行ったからだからなんだよってのはあるけど、FPSの考え方をいろいろ勉強するのはおもしろかったな。

で、そのせいか体調を崩してここ一週間ぐらいずっと寝込んでました。今日は少し良くなったかなってことで音楽つくって本読んでいまこれ書いてます。本ってのがカール・シュミットの政治的ロマン主義って本で、まさにかつての、前の記事の僕みたいな考え方を強烈に批判する本でね。決断せずに、永遠に続く可能性の想像を美しいと考えるロマン主義は、所詮は未決定のままのブルジョワの安定にあぐらをかく、現状肯定の立場だってシュミットは批判している。フランス革命あたりの思想家、政治家を分析しながら、そういう立場はいいことを言ったとしても、結局はそれを実現する気もなければその能力もない、ただのブルジョワの遊戯だみたいな批判なんだよね。まさに今のたいていの大学の哲学専攻の学生やらネットにうようよいる「個人的には」こう思うみたいなことを書いてる人たちとか、おまえら本当に自分の発言を実現するために現実でコミットメントしてんのかよ?てのがこの本が言ってることで、自分にぐさぐさ刺さるのね笑。特に前の僕の記事なんて、この本が批判する未決定の自由な宙ぶらりんのモラトリアムの状態に引き寄せられてる状態そのものだしね。

別にシュミットが好きってわけじゃないし、シュミットいろいろ問題ある人だし、まんま受けとるってことはないけど、批判には学ぶところがたくさんあるよね。それとシュミットみたいな胡散臭い方面に利用されがちな政治学者の本読んでるとそれと関連して一部胡散臭い政治思想にも触れることになるのよね。右翼左翼みたいな話で、まさに政治的な思想。僕は元来政治にまったく関心がなくて認識論だの倫理だのをやってきたけど、やっぱり政治に無関心でいることはよくないっていうか無関心でいることなど不可能だよねってことにきがついて、ちゃんと政治思想を勉強してリテラシー身につけとこうと思ってる。いわゆる政治、自民党がどうのとか憲法改正がどうこうとかそういう次元の話じゃなくて、もっと根本的つまりラディカルな、民主主義とは自由とは法治国家とはみたいな、国家体制の根幹にある思想を勉強しておかないといけない。いわゆる権力者の言説の土台にあがること、それこそ選挙で議論されるような次元でものを考えていてもやっぱりだめだと僕は思うんだよね。彼らが当たり前とみなしている、あるいは僕たち国民にあたりまえのものだと捉えさせている土台そのものの下にあるメタの次元の思想を考えられないことには、どこまでいっても権力の手のひらの上で言葉を踊らされてるだけだと思うしね。そういう意味での政治哲学ですよね、やっぱり。哲学は根本的に権力者から忌み嫌われるものだと思うし、そうでなければならない。権力者から好かれる哲学なんて根本からおかしいしね。

それと政治や現実から抜け出して、ゲームや趣味や芸術の世界に逃げ込むなんてことの不可能性は就活とかしながら感じてる。現実と非現実のあいだに境界を設けてしまうと、現実が未決定のままの放置になってしまって、現実の法則にそのまま流されていくだけの、言い方を変えれば権力の求めるがままに動くだけのエージェントになってしまう。現実のわたしの主体性が必要だし、そのためには政治について考えなければならない。生きることと切り離すことのできない政治性をきっちりと認識することの重要性はシュミットから学んでると思う。決断じゃないけど、自分がどうするのかを現実の正確な把握とともに考えて行動する力を持たないといけないし、そのためには現実にコミットメントしないといけない。村上春樹じゃないけどデタッチメントとか言っていられないと思う。春樹の時代はどうか知らないけど、少なくとも僕がこれから生きていく時代はナショナリズム的な趨勢が強まって中央の権力がどんどん拡大している時代でしょう。そんな時代にデタッチメント!とか言ってたら権力を認識することさえできずに、いい具合に自分の考えや生の捉え方そのものが権力色に染め上げられると思うしね。芸術や趣味ももちろんいいけど、それと同じくらいの重要性で現実の生を哲学的に考えないといけない。右翼だろうが左翼だろうがどちらでも、自分で主体的に認識して思考する必要がある。その出発点はとりあえず国家かなと思ってます。今まで政治とかに無関心で勉強してこなかったから、そのつけを残りの半年くらいで精算したいね。ルソーとホッブズ、あとアナーキーロールズをちゃんと勉強しておかないとと思う。自分的はやっぱアナーキーかなと思う。どうも国家への忠誠とか日本への愛国心みたいなものがないんだよね。かといってコスモポリタンってわけでもないし。なんていうか日本政府が好きとか嫌いとか、そういう次元じゃなくて、国家とか組織そのものにたいして懐疑的なんだよね。人が群れることそのものが好きじゃない。とはいえ国家は必要だし云々ってことを少しこれから考えてみようと思う。