nimem’s blog

雑念の墓場

働きはじめて思うこと

働いて何か変わるかっていうとたいして変わらんじゃんってのが率直な感想なんだよね。世の中の厳しさとか社会人になるとか云々とかああだこうだ、いうなれば大人と子供を隔てる言葉や考え方ってあるけど、そうしたものって結局はコストの考え方の話であって人間としての考え方の上等さみたいなものとはあまり関係ないと思うんだよね。コストに見合った仕事をするためとか目的を達成するための思考ができるからといって人間として偉いことにはならないよね。ならないし、だいたいそういう考え方ができるからイコール幸福になるのかってのも全然違う話だと思うんだよ。

幸福って難しいわってのが、まあ五月病じゃないけどあれこれ考えるんだよね。カント的に言えば幸福なんてものは結局は身体の安楽に還元されて、それ以上のものではないんだよね。身体的な快適さ以上のところにある善なるものは至福っていうひとつ上のステージに位置付けされる。それはまあ端的に言えば神という名の理性の法則の別名みたいなもので、人間としての高みは身体じゃなくて精神というか理性の洗練にある、みたいなのがカント的な考え方だと思うんだけど、まあ労働なり仕事なりで理性の洗練がなされるはずもないわなってね。法則!とか言いながら仕事したくないしね笑。

幸福てか差し迫った問題はやっぱり結婚だわ。結婚が幸福につながるってのが一般的な常識で、まあこれに関しては僕もその通りだと思うんだよね。孤独は幸福なのかっていうとまあ不幸ではないにせよ、誰かしらといたほうがいいよね。友達はいないよりいたほうがいいみたいな。結婚なり友達そのものに価値があるかはおいておいて、そこから引き出しうる幸福の可能性は魅力的なんだよね。

まあ実際問題自分の性格が誰かしらと浅かれ深かれ交流を持つってのに対してかなり難しいものなんだってのを改めて痛感させられたりね。簡単に言えばうまくコミュニケーションがとれないわけ。いやまあ自分の考えを伝えるなり相手の考えを受け取るなりの、いわば情報の授受って意味でのコミュニケーションは全然できるんだけど、それ以上に、なんというか情報以上のものをやり取りして親交を深める的な意味合いのコミュニケーションは壊滅的なんだよね。昔からそうなんだけど、そういえば俺って友達いなかわったわとか思い出したりね。それを今までそれほど問題だと考えていなかったんだなって、彼女なりをつくりたいとおもってようやく痛感するというね笑。

言うても幸福は大事ですよね。結局仕事の目的は生活を成り立たせるっていうサバイバル的な要素なんでどこまでいっても身体的な目的のもとにあるものなんだよね。だから身体的なつらさをある程度持ちつつも、それ以上の身体的な快適さがあるっていう希望をもって仕事をするわけで、きつくて大変な仕事をして生きているけど、身体的な快適さって希望はありませんってなるとやっぱりいろいろつらいわけなんだよね。孤独は身体的に快適か?っていうと、いややっぱ快適ではないわってなるが、かといって誰かと一緒にいることも快適ではないというね。もうどうしようもないですよ笑。

このまま孤独に働いて孤独に死んでいくのかって考えるといろいろ嫌になってくるわけなんだよね。仕事が楽しいとか楽しくないとかそういう次元の話じゃなくて、生きていることそのものの目的性のなさというか、ただ生を維持するためだけの生になってるなってことを土日に考えて何もせずに終わるという。身体的な充足を精神の充足で満たしうるかっていうとそりゃ無理だよなってことで、結局は身体的な不足は身体的な充足によって満たさないといけないんだよね。そのために何ができるかって、やっぱ外に出るしかないんだよな。でも外に出て人と話すのは全然好きじゃないし、、、の繰り返しというね。

大人になるってのがどういうことかよくわからないけど、大人になればこんな無意味な繰り返しがなくなるのかもしれない。いずれにしてもどうにかしないとまずいっすね。最近はそんな感じです。あんま仕事関係ない話だけど。