nimem’s blog

雑念の墓場

働くこととか

労働は義務です、はい。義務なので別にあれこれ考えなくていいんじゃねって逆張りの発想しないとやってらんないんです。人間関係とか上司が云々とか、あれこれ考えて、文字通り親身に考えたって意味はないんだよね。ただ義務だから働く、なんで義務化って言うと金がないと生きていけないから金のために義務が発生してる、なぜ金がいるかっていうと身体があるから食べ物がなくちゃ苦しくなるから金がいる、金がいるから働く、それだけです、はい。

別にあれこれ考えなくていいんですよね。なすべきことをなす、そして帰る、そして金をもらう、とてもシンプルだよね。あれこれ考えて、誰かのためにとか世の中のためにとか、やりたいとかやる気があるとか、そういう世界でものごとを考えてたら仕事なんてやってられないです。

というのもいささか精神?身体?ちょっと最近調子悪くて、あれこれ考えすぎてるのが原因なんだよね。営業とかじゃないぶんそんなに精神的な負荷はないだろうって思ってたけど、いつまでにこれをやれっていう要。求はあるわけだから、それほど差はないかもしれない。

あとはあまり書かないけど人間関係的にも、まあ世の中にお釈迦様的な聖人にあふれてるわけじゃないから仕方ないけど、あれこれあるよね。深くは言わないけど。

労働は義務、みんなと仲良くならなきゃとかコミュ力とか、評価とかどうでもよろしって話でした。なすべきことをなす、給料分の働きはする、それくらいでいいんじゃないかな。

コミュ力について思うこと

コミュ力ないと仕事にならん。結論はこれ。ひとり部屋で仕事をするんならコミュ力いらないだろうけど、出社して、たとえオフィスワークでも人に囲まれながら仕事をするわけだよね。だから不可避的に人と話さなくちゃいけない。今後十年二十年と働くなら印象って大事だよね。仕事ができるってことのなかには、コミュニケーションが取れるってことも含まれてるんだよね。

で、僕にコミュ力があるのかって話をすれば、なくはない。単に指示を受けたり、質問をしたりする事務的なコミュニケーション遂行能力はあるわけですよ。しかしたとえば人と仲良く話すみたいな、相手に好印象を与えたり、本音を引き出すなんてことはできないんだよね。まったく。それと人とたとえ事務的な会話にしても話をするとすごい疲れる。身体的な疲れというよりも精神的に摩耗している感じ。初対面だったり歳が上の人だとなおさらね。つっても月から金まではどうにか持つんだけど、でもうまくコミュニケーション取れてないと思っちゃうんだよね。

おそらく僕は被害妄想というか、人が怖いんだと思う。常になにか悪いように思われていないかとか、相手を傷つけていないかを想像しながら会話してるんだよね。それってかなり疲れる。相手の顔色をうかがうってこのことなんだよね。だからちょっと会話に間ができてしまったり、微妙な反応をされたりするとすぐにおどおどしちゃって、言わなくていいことを言ってしまったり、早口になってしまったり、まあ軽くみられてしまうような言動をしてしまう。これまずいよね。相手のうまいように回されちゃうしさ。

やっぱり堂々としていないといけないですよ。何があっても顔色を変えたり、口調を変えたりしない具合にさ。上司だろうが後輩だろうが、一律に同じような態度で接しないと頼りがいがない。それとあまり人の気持ちとか想像するのはやめたほうがいいと思う。キャパオーバーなんだよね。相手の感情とか言動の次の手みたいなものを読みながら会話しているからコミュニケーションに疲れちゃうんだよ。人間なんて所詮自分のことしか考えていないし、僕が何を言っても気にしないんだくらいの心持でいたほうが、僕の場合はいいかもしれない。わざわざ相手のことを気遣いながら会話しなくても、脳死で会話しても、僕の場合は人を傷つけるようなことは言わないだろうしね。過剰なんだよ、たぶん。

あとは相手のペースに会話のテンポを合わせるべきだね。僕って結構早口だし、頭のなかに浮かんだ考えを口に出しながらまとめていくみたいな話し方をしちゃうから、それだと言葉の重みは軽いよね。ワンテンポおいて、核心になることだけを最短の言葉でまとめて話したほうがたぶんいい。あと間を置くってことを覚えたほうがいい。べらべらテンション高めを装って話をしても、なんていうか、頼りないというか、ね。

仕事については次の三つを変えないとと思う。
1、堂々と話す。
2、短く核心を話す。
3、相手の気持ちや出方をいちいち想像しない。

 

問題は仕事外というか、休憩中というか、プライベートというか、私的な会話の時なんだよね。わりとそういう話をする機会があって、おれってやっぱ軽いというか地味というか、ああ、そんな感じにとらえられてんのねって思った。人間味がないというかね。飲み会とか結構おどおどしてるんだよね。悪く思われてないかなとか俺と一緒で嫌がってないかなとか、地味だなと思われてないかとかね。インテリ真面目みたいなイメージってやっぱり好きじゃないわけ。かといっていけいけも嫌い。自分をどういうように見てほしいのかがはっきりしていないし、だからこそぶれぶれになるのかなとか思うけど、まあ、やっぱり一番でかいのは相手のことを考えすぎていたり、自分の気持ちやら考えを複雑に考えて想像しているせいでごちゃごちゃになってるんだよ。だからこそ相手の一挙手一投足に対しておどおどして構えちゃってるというね。間が怖いんだよ。ちょっとでも会話に間が空いちゃうと、相手なにか僕のことで悪く思ってるかもしれない、つまんねえなとか思ってるんじゃないかとうがって想像しちゃって、べらべらろくでもないことを話すというね。これがつらいんだ。いいことないしね。軽く見られるし。

それに付随してというか、まあ端的な話、僕から女性をデートに誘うみたいなことをしたわけですよ。で会って話をして、で、まあよくわからないけど振られたんだよね。恋愛経験が少ないよねてきなことを言われて、まあ、端的な話頼りないってことだし、男性としての魅力がないというそういう理由なんだろうね。確かに全然女性と遊びに行くみたいなことしてこなかったし、性格もあいまって当然で正しい指摘なんだよね。まあ、へこみますよね。へこむっていうか、憂鬱というか、全部嫌になるというか、前のブログの記事で自分を開くみたいなこと書いてたけど、完全に閉ざしたくなるという笑
部屋の窓に段ボールを張り付けてシャッターを閉めて、ドアを固く閉ざしてチェーンをかけて布団のなかにくるまって、目と耳を閉じていたいというかそんな気分だったんだよね。

で、もう嫌になってじゃあやめるのかっていうと、やっぱりそれも違うよね。今現状では自分の能力というか状態があまり人間慣れしていない、女性にとって魅力的ではない、というかコミュニケーションが得意ではないってことが明らかになっただけで、じゃあ一年後や二年後もまったく同じ状態であるってことにはならんよね。ここでじゃあどうすれば磨けるかとかどうやって高めるかってことを考えて行動するかどうかが重要なんだよね。欠点があるとか悪い部分があるってことが明らかになること自体ももちろんつらいけど、本当につらいのは、将来もそうした状態に自分があるだろうと確信して絶望することなんだよね。そこで絶望せずに希望を抱きうるとすれば、それは未来に向けてなんらかのアクションを取った時なんだよね。アクションを取るべきですよ、やっぱりね。腐らずに、どんな手段を使ってでも自分を変えるんだ、洗練するんだと考えないといけない。でないといろんな物事が悪い方向にばかり進んでしまう。孤独だろうが変人だろうが、やるっつたらやるんですよ。変えるといったら変えるんですよ。

まあ、こっちだけ恋愛だと思っていたが、相手は別段なんとも思ってなかったってことを総括して改善点?みたいなものを上げるとすれば、
1、おどおどして早口になってはだめ。
2、言い直したり、あとさ、とか、でも、とか、間をつなぐ言葉を使うべきじゃない。
3、ひたすら聞き役で認め役。

これしかないね。あとネガティブは絶対だめだね。別に根は暗いというか、陽気でなくてもいいけど、言動にネガティブな要素を含ませるのは絶対だめだね。そこはろ過して心のなかに置いておいたほうがいい。相手も反応に困るしね。

まあ、日々精進ですね。

働きはじめて思うこと

働いて何か変わるかっていうとたいして変わらんじゃんってのが率直な感想なんだよね。世の中の厳しさとか社会人になるとか云々とかああだこうだ、いうなれば大人と子供を隔てる言葉や考え方ってあるけど、そうしたものって結局はコストの考え方の話であって人間としての考え方の上等さみたいなものとはあまり関係ないと思うんだよね。コストに見合った仕事をするためとか目的を達成するための思考ができるからといって人間として偉いことにはならないよね。ならないし、だいたいそういう考え方ができるからイコール幸福になるのかってのも全然違う話だと思うんだよ。

幸福って難しいわってのが、まあ五月病じゃないけどあれこれ考えるんだよね。カント的に言えば幸福なんてものは結局は身体の安楽に還元されて、それ以上のものではないんだよね。身体的な快適さ以上のところにある善なるものは至福っていうひとつ上のステージに位置付けされる。それはまあ端的に言えば神という名の理性の法則の別名みたいなもので、人間としての高みは身体じゃなくて精神というか理性の洗練にある、みたいなのがカント的な考え方だと思うんだけど、まあ労働なり仕事なりで理性の洗練がなされるはずもないわなってね。法則!とか言いながら仕事したくないしね笑。

幸福てか差し迫った問題はやっぱり結婚だわ。結婚が幸福につながるってのが一般的な常識で、まあこれに関しては僕もその通りだと思うんだよね。孤独は幸福なのかっていうとまあ不幸ではないにせよ、誰かしらといたほうがいいよね。友達はいないよりいたほうがいいみたいな。結婚なり友達そのものに価値があるかはおいておいて、そこから引き出しうる幸福の可能性は魅力的なんだよね。

まあ実際問題自分の性格が誰かしらと浅かれ深かれ交流を持つってのに対してかなり難しいものなんだってのを改めて痛感させられたりね。簡単に言えばうまくコミュニケーションがとれないわけ。いやまあ自分の考えを伝えるなり相手の考えを受け取るなりの、いわば情報の授受って意味でのコミュニケーションは全然できるんだけど、それ以上に、なんというか情報以上のものをやり取りして親交を深める的な意味合いのコミュニケーションは壊滅的なんだよね。昔からそうなんだけど、そういえば俺って友達いなかわったわとか思い出したりね。それを今までそれほど問題だと考えていなかったんだなって、彼女なりをつくりたいとおもってようやく痛感するというね笑。

言うても幸福は大事ですよね。結局仕事の目的は生活を成り立たせるっていうサバイバル的な要素なんでどこまでいっても身体的な目的のもとにあるものなんだよね。だから身体的なつらさをある程度持ちつつも、それ以上の身体的な快適さがあるっていう希望をもって仕事をするわけで、きつくて大変な仕事をして生きているけど、身体的な快適さって希望はありませんってなるとやっぱりいろいろつらいわけなんだよね。孤独は身体的に快適か?っていうと、いややっぱ快適ではないわってなるが、かといって誰かと一緒にいることも快適ではないというね。もうどうしようもないですよ笑。

このまま孤独に働いて孤独に死んでいくのかって考えるといろいろ嫌になってくるわけなんだよね。仕事が楽しいとか楽しくないとかそういう次元の話じゃなくて、生きていることそのものの目的性のなさというか、ただ生を維持するためだけの生になってるなってことを土日に考えて何もせずに終わるという。身体的な充足を精神の充足で満たしうるかっていうとそりゃ無理だよなってことで、結局は身体的な不足は身体的な充足によって満たさないといけないんだよね。そのために何ができるかって、やっぱ外に出るしかないんだよな。でも外に出て人と話すのは全然好きじゃないし、、、の繰り返しというね。

大人になるってのがどういうことかよくわからないけど、大人になればこんな無意味な繰り返しがなくなるのかもしれない。いずれにしてもどうにかしないとまずいっすね。最近はそんな感じです。あんま仕事関係ない話だけど。

開くこと

今年はずっと閉ざしきりだった。というかおおよそ大学生活は閉ざしきって、自分のなかの世界でいろいろ探求したり遊んだりと、まあ引きこもってはないけど、精神的にはひきこもりの状態だったなというのが今年を含めて大学生活を振り返っての感想かな。来年からは就職してはたらくわけで、こういう閉ざしきった生活はできなくなる。いやでも外の世界でサバイブしていかなくちゃいけなくなるわけで、そんな世界でやれ真理だのやれ快楽だのやれ趣味だの言っていられない気がする。もちろん趣味を捨てるわけじゃないけど、趣味メインの生活ていうのはまずできないだろうと心して置かなくちゃいけない。

まあ大学生活は実際のところ友達をつくることもなく、誰ともしゃべることのない四年間をずっと貫いてきたわけで、別にそういう生活を美化する気はないんだけど、ただ自分の生活スタイルがそういうものだったって結果だけなんだよね。大学だって別に本腰を入れて勉強する!とか講義に出る!みたいなことはなくて、テストがない講義をいろいろとったり興味ある講義をとったりして、けっこう悠々自適な生活を送ってた。まあ僕が専門に選んだのが哲学だってこともあって、テストとか暗記が皆無だったってのはけっこういい具合に作用したかなと思う。ほとんどすべての時間を自分のためにあてることができて、やりたいと思ったコンテンツはやり尽くしたと思う。言い方はあれだけど、遊びたいことや興味あることはすべてやりきったと思う。ゲームもしかり音楽もしかり読書もしかり、知りたいやりたいと思ってたことは大学生活のなかで堪能したと思う。読みたいと思ってた超長編みたいな世界文学とかも読めたし、やりたかったゲームも今までやってこなかったぶん取り戻してぜんぶやれたし、音楽もジャズとかクラシックとか有名所はぜんぶ聴いたと思うし、それが楽しかったかとかなにか自分のなかに響いたかとかは別にして、少なくとも自分のなかに通過させた。これはやっておいてよかったことだよね。

でもその反面でいざ大学を卒業する!とかいざ社会のなかでサバイブしていく!てことを考えると、大学生活で考えてたこととは別のことを考え始めるのよね。それがここさいきん、卒業を見据えていろいろ動いている中で考えてることなんだけど、いざ自分がこれから数十年生き抜いて死んでいくってことを考え出すと、自分の趣味の追求とは別の場所が見えてくる。まあめんどうな言い回しなしでわかりやすく言えば、結婚とか葬式とかそういうことね。自分が老けたときにも今みたいにひとりでいるのか?とか死んだ時いったい誰が自分の死体を片付けるんだ?とかね。そういう死ぬこととか老いをちゃんと考えると、それこそ哲学的にって次元じゃなくてわりとプラクティカルに生活に関わるかたちで考えると、やっぱりひとりじゃくて誰かと一緒に生活したいって欲が出てくるのね。で、まあ結婚ていうことになるんだけど、今までの閉じた生活じゃ、付き合ってる人はおろか、友達さえいない始末だからだめだよなってことになってくる。自分の生活を、精神?みたいなものを開いていかなくちゃいけないよなってことになってくる。自分の殻?に閉じこもってるんじゃなくて、やっぱりコミュニケーションの重要性がわりと生きるために必要って次元で浮かび上がってくるわけです。

それはたぶん彼女がほしい!とかエッチなことしたい!みたいな欲求めいたところではなくて(もちろんそういう欲求はあるけど)、もっと深い場所に欲の根があるんだと思うし、だからこそなおさら深刻な問題なんだよね。シリアスな恋愛?てか恋愛っていう浮いたような次元じゃなくて、生きぬくってことと関わるわりと真面目な問題だなってことに思い当たるんだよね。今までは別に女に時間と金を使うなんてみたいな笑次元でしかこういう事考えてこなかったし、自分もあんまり性欲みたいなものは旺盛な方じゃなくて、彼女がほしいってあんまり感じなかったんだよね。彼女をつくるよりも、ゲームとか音楽とか読書とか、大学時代のひまな時期にしかできない、自分探し笑みたいなことをやりたいって欲のほうが勝ってたし、言い方を変えればそういう浅い次元でしか人間関係を考えてこなかったってことだよね。

哲学者は孤独であるべしみたいなことを真面目に捉えてた感がいなめないし、そういう意味でロマンチックてかプラトニックな志向こそがより崇高な人間であり、恋人をつくっていちゃいちゃしてるやつらはみんなアホだくらい思ってたかもしれない。そういうことじゃないんだよなって最近になって思う。まあもちろん下半身に正直に笑たくさん彼女作ってとっかえひっかえで遊ぶことを楽しむって次元のひともいるだろうけど、そういう人間がイコール結婚とか恋愛ってわけじゃないでしょう。もっと真面目に人と関わることを考えなくちゃいけない。それは自己顕示欲とはやっぱりちょっとちがう次元にある恋愛なんじゃないかなと、まあ頭の中でだけど思うわけです。なにせここで重要になるのは、自分がどんなに素晴らしい人間で魅力ある人間で、かっこいい男かみたいなことではないでしょう。そういうインスタントな人間性は、シリアスなそれこそ結婚みたいな話とはぜんぜん関係ない話だよね。まあ一夜限りの楽しみみたいなところとは関係あるんだろうけど。自分がどういう生き方がしたいかとか、もっといえばどういう死に方がしたいかみたいな話で、やっぱり人生観ていうのかな、生きるってことをどう捉えているかみたいな深い次元でのコミュニケーションが重要になってくると思う。もっともインスタントなファッションとか魅力が関係ないみたいなことは言う気はないけど、それはあくまでもオプショナルなものなんじゃないかな。

まあてなわけで来年の目標は自分を開くことかな。恋愛に限った話じゃなくて、もっと人間としての自分を磨く?みたいなことに力を入れたいね。趣味を磨くのも大事だけど、やっぱりコミュニケーションを洗練していくこともおなじくらい大事だと痛感するからね。

ゲームと卒論

ここのところゲームにどはまりしてJRPGあたりを集中的にプレイしてた。ブレイブリーⅡを50時間、ゼノブレ2を100時間、あとゼノブレ1とブレイブリーデフォルトdsを積みゲーしてる。

生活リズムとしては朝数時間卒論書いたり修正したりして、その後はぶっ続けでゲーム、で、四時くらいに寝る、をずっと繰り返して二週間くらいゲームと卒論の日々を送ってた。久しぶりにRPGやるから、てかゲーム自体ちゃんとやるのが久々だから、攻略サイトとかときどき見ながら集中的にゲームは楽しくて時間を忘れてたね。ただ卒論の提出期限もあるから卒論も書いてたけど、これがちょうどいい塩梅で、まあ卒論は真面目に書いて、そのあとは遊ぶっていうリズムがいい具合に憂鬱をかき消してくれると言うかね。

ただやっぱり二週間もずっとゲームばっかで、150時間もやればあきがくるわけで、あれ?なんでおれってレベリングしてたんだっけとか、ゲームのやりこみやっていったい何になるんだ?みたいなことを考え始めて、ゲームから得られる快楽が薄れてくるのね。飽きですよね。で、なんか違うゲームでもやろうかなと思っていろいろ新しいゲーム調べてたけど、どれみてもあんまりやろうとは思えなくて、それって面白いゲームがないってわけじゃなくて、僕がそもそもゲームっていう行為に飽きちゃって、ゲームから快楽を引き出せなくなってるってことに気がついたのね。

だから別のことしなきゃってことで、いまいろいろ模索してる。卒論も年内にはぜんぶ片付くし、そのあとは卒業までわりとフリーだから自分のやりたいことに集中できる、就職までの残された最後の期間ってことで、なにやろうかなって感じですね。音楽もなんだか最近はあまり聴く気がおきないし、つくる気も起きないしで微妙な感じなんだよね。あまりいい精神状態じゃないっていうか、やる気が起きないっていうか。あまり生産的じゃない、頭が冴えない時期に入ってしまってる感がある。なにをやっても気持ちよくないというか楽しくないというか、いったい自分はなんのために生きてるんだけっけみたいな考えの迷走の時期というかね。

そりゃもう二十年くらい生きてるから、自分の精神状態にリズムがあることはわかってるんだよね。これすごいおもしろい、楽しすぎる、夢中だーみたいな状態がしばらく続いて、その後はなにも楽しくないっていう時期がつづいて、またおもしろいものを見つけて、快楽器官?みたいなものが復活して、また楽しい、夢中だ―って期間になって……ての繰り返しだからね。もちろん何もする気が起きないっていっても、深刻なうつみたいな状況じゃなくて、自分がやらないといけない生活上の義務てのかな、今の僕で言えば大学の講義に出るとかバイトに行くとか課題をやるとかは最低限こなせるだけのモチベはあるから問題ないから、来年からはたらくことも別に心配はしてないんだけど、心配してるのは、人生の楽しみってのかな、それが枯れてなくなくなっちゃうことなんだよね。人生をかけて探求するみたいなコンテンツがいくつかないと、なんのためにお金を稼いで働いているのか、なんのために生きているのかわからなくなっちゃうしね。

てなわけでまたおもしろいものを探そうとおもいます。もっとも音楽とか本を読むとかは、飽きがこないコンテンツということで探求の対象ではあるんだけど、そのほかの楽しいことを探さないとってことなんだよね。それこそ快楽をもたらしてくれるっていうか、その点では音楽がいちばんいい感じなんだけど、テクノってあまり聴きたくない期間ってのが僕の中ではあるから、そのあいだの空白の快楽をどうやって埋めるかってことが課題かな。もちろん誰かと遊ぶとかがいちばん良さげなんだけど、僕はあまり対人云々がうまくないから現実味がないんだよね。まあ、それも含めて克服?探すってのが来年の課題になりそうです。あまりむずかしく考えすぎずに、楽しく生きる、そんな一年にしたいけど、やっぱりむずかしく考えて迷走して絶望して憂鬱な一年になりそうなんだよなあ。まあ、それも味だけど、やっぱ楽しく生きるほうがいいと思うから、どうにかしようと思ってます。

風邪と政治的ロマン主義

久しぶりのブログ更新、文章を書くことすら久しぶり。ここ数ヶ月あったことを記録しておこうと思ってブログを書く。

前の記事に就活やめた云々書いていたけど、結局就職決まりました、はい。高貴云々偉そうなことを書いておきながら、9月ごろから就活をエージェント使って始めて三週間でいいところに内定もらったからそこに決めた。10月に内定式をズームでやって、オフラインの会社見学会に参加して希望調書を出して今ここ。院試も願書出してたけど、受験する前に辞退して就活に専念したかたちかな。

なんで突然あんだけディスってた就活しだしたかは親にも色々聞かれたけど、要は大学院に行っても別に研究職目指しているわけでもなく、ただ就活の時期が二年ほどあとにずれて、自由な時間を二年間ほど確保するってだけで、結局のところ自分が就職してそのあと働きながら生きていくってのには変わりないことに気がついたからだね。僕の場合は文系でしかも哲学っていう、別に大学院に行かなくてもいくらでも自分で学ぶことができる分野だったから、別にいいかなと思った。それに前の記事みたいなことを考えていたわけだけど、それって結局のところ先送りにして自由のなかに逃げてるだけだよねってこと。現実から目をそむけて、理想だのなんだのに生きるのって、聞く限りは素敵だけど、生きるってったって今の自分なり大学院に行った自分なりも結局は親の金なり借金なりに頼り切ってるだけで、言ってることと考えていることがだいぶ乖離してるよなと思うようになった。生きるってことそのものをわりと現実的に考えるようになったってことかな。ロマン主義というか、夢を追いかけるとか理想の探求みたいな、地に足をつけていない生に勝ちがあるのかってことを問うてみると、まあどうなんだろってね。少なくとも地に足をつけて自分のちからでサバイブして生きていくっていう過程を経ずにああだこうだ言ってることに重みを感じなくなった。きちんと現実に働いて生き抜いてみようと決めたわけです。

就活で感じたこと考えたことは、わりと少ない。よく言われるような、それこそユーチューブで大学一年とかそのあたりに見ていた「就活狂想曲?」みたいな狂気じみたことを感じることはなかったかな。全部オンラインで済ませられたっていう、コロナのおかげ?の影響もあるんだろうけどね。自己PRとかガクチカ?を山程書かなきゃいけなかっり、わけのわからない適性検査なるものを山程受けさせられるのは確かにおもしろくはないけど、取り立てて何かを主張しないといけないほどおかしなことではなかったかな。就活は一種の通過儀礼だと認識して、意味があるとかないとかの次元とはかけはなれた、それこそ宗教的な儀礼だとでも思ってれば笑いいんじゃないかな。ただ面接はいろいろと勉強になったかな。どうのこうのいって経営する立場にある人たちと話ができる機会って貴重だと思うし、いろんな人と面と向かって長い時間話ができたのは、ふつうにおもしろかったかな。緊張はしたし、弱いところ痛いところ疲れたりはしたけどね。まあ僕の場合は就活ガチ勢とかじゃないし、大企業を目指していたわけでもないから、どう言えばいいかな、大学受験の延長で大企業や有名企業に入ることで自分の価値を証明しないとみたいなことを考えている人間にとっては就活は大変なんじゃないかな。そういう人たちのために、大学受験産業があるのと同じように、就活産業もちゃんとあるから、そういう産業のなかでお金と時間を消費して対策を講じて就活に望む市場があるんだと思う。ただ僕はわりとそういういわゆるビジネス的な自己啓発的なことに熱心な人たちを哲学的にわりと冷めた目で見る傾向があるけど、社会の中で生きていくことを考えると賢い(巧緻)な人たちだと思うな。だって結婚とか考えたときにはやっぱり金がいるし、金を稼ぐとなると、営業で歩合でばりばりを除けばやっぱ大企業の幹部候補枠で入社して出世するコースになるでしょう。文系なら尚更ね。官僚ですよ。より多くの人間を管理する権限を持つ、それだけ地位と収入が増える。官僚の選別には選別のエクスキューズがいる、それが試験だし、学歴だし、そう考えると大企業に入りたい人たちの就活は、仕事選びというよりは科挙みたいなごりごりの官僚選抜試験って風貌を帯びてくるよね就活は。そういう就活はストレスフルなわけですよ。大学受験より過酷という。

就活の話はもういいや笑。もう終わったしね。就活が終わったあとはエペにはまってた。ランクマでプラチナまで3日連続で一日中エペやってたな。FPSはてかゲームはどうにも目が悪くなるし、毎日欠かさずにエイム練習しないといけないしでもうやらないと思うから大学時代のうちに中級者くらいにはなっておきたかったんだよね。ほんとはダブ半爪痕くらいやりたかったけど、まあ無理でしたわ笑。プラチナまで行けば少なくとも初心者ではないっていうか、エペのたいていの技術は習得してるからここまでやればまあ納得してやめられるかなってことでね。プラチナ行ったからだからなんだよってのはあるけど、FPSの考え方をいろいろ勉強するのはおもしろかったな。

で、そのせいか体調を崩してここ一週間ぐらいずっと寝込んでました。今日は少し良くなったかなってことで音楽つくって本読んでいまこれ書いてます。本ってのがカール・シュミットの政治的ロマン主義って本で、まさにかつての、前の記事の僕みたいな考え方を強烈に批判する本でね。決断せずに、永遠に続く可能性の想像を美しいと考えるロマン主義は、所詮は未決定のままのブルジョワの安定にあぐらをかく、現状肯定の立場だってシュミットは批判している。フランス革命あたりの思想家、政治家を分析しながら、そういう立場はいいことを言ったとしても、結局はそれを実現する気もなければその能力もない、ただのブルジョワの遊戯だみたいな批判なんだよね。まさに今のたいていの大学の哲学専攻の学生やらネットにうようよいる「個人的には」こう思うみたいなことを書いてる人たちとか、おまえら本当に自分の発言を実現するために現実でコミットメントしてんのかよ?てのがこの本が言ってることで、自分にぐさぐさ刺さるのね笑。特に前の僕の記事なんて、この本が批判する未決定の自由な宙ぶらりんのモラトリアムの状態に引き寄せられてる状態そのものだしね。

別にシュミットが好きってわけじゃないし、シュミットいろいろ問題ある人だし、まんま受けとるってことはないけど、批判には学ぶところがたくさんあるよね。それとシュミットみたいな胡散臭い方面に利用されがちな政治学者の本読んでるとそれと関連して一部胡散臭い政治思想にも触れることになるのよね。右翼左翼みたいな話で、まさに政治的な思想。僕は元来政治にまったく関心がなくて認識論だの倫理だのをやってきたけど、やっぱり政治に無関心でいることはよくないっていうか無関心でいることなど不可能だよねってことにきがついて、ちゃんと政治思想を勉強してリテラシー身につけとこうと思ってる。いわゆる政治、自民党がどうのとか憲法改正がどうこうとかそういう次元の話じゃなくて、もっと根本的つまりラディカルな、民主主義とは自由とは法治国家とはみたいな、国家体制の根幹にある思想を勉強しておかないといけない。いわゆる権力者の言説の土台にあがること、それこそ選挙で議論されるような次元でものを考えていてもやっぱりだめだと僕は思うんだよね。彼らが当たり前とみなしている、あるいは僕たち国民にあたりまえのものだと捉えさせている土台そのものの下にあるメタの次元の思想を考えられないことには、どこまでいっても権力の手のひらの上で言葉を踊らされてるだけだと思うしね。そういう意味での政治哲学ですよね、やっぱり。哲学は根本的に権力者から忌み嫌われるものだと思うし、そうでなければならない。権力者から好かれる哲学なんて根本からおかしいしね。

それと政治や現実から抜け出して、ゲームや趣味や芸術の世界に逃げ込むなんてことの不可能性は就活とかしながら感じてる。現実と非現実のあいだに境界を設けてしまうと、現実が未決定のままの放置になってしまって、現実の法則にそのまま流されていくだけの、言い方を変えれば権力の求めるがままに動くだけのエージェントになってしまう。現実のわたしの主体性が必要だし、そのためには政治について考えなければならない。生きることと切り離すことのできない政治性をきっちりと認識することの重要性はシュミットから学んでると思う。決断じゃないけど、自分がどうするのかを現実の正確な把握とともに考えて行動する力を持たないといけないし、そのためには現実にコミットメントしないといけない。村上春樹じゃないけどデタッチメントとか言っていられないと思う。春樹の時代はどうか知らないけど、少なくとも僕がこれから生きていく時代はナショナリズム的な趨勢が強まって中央の権力がどんどん拡大している時代でしょう。そんな時代にデタッチメント!とか言ってたら権力を認識することさえできずに、いい具合に自分の考えや生の捉え方そのものが権力色に染め上げられると思うしね。芸術や趣味ももちろんいいけど、それと同じくらいの重要性で現実の生を哲学的に考えないといけない。右翼だろうが左翼だろうがどちらでも、自分で主体的に認識して思考する必要がある。その出発点はとりあえず国家かなと思ってます。今まで政治とかに無関心で勉強してこなかったから、そのつけを残りの半年くらいで精算したいね。ルソーとホッブズ、あとアナーキーロールズをちゃんと勉強しておかないとと思う。自分的はやっぱアナーキーかなと思う。どうも国家への忠誠とか日本への愛国心みたいなものがないんだよね。かといってコスモポリタンってわけでもないし。なんていうか日本政府が好きとか嫌いとか、そういう次元じゃなくて、国家とか組織そのものにたいして懐疑的なんだよね。人が群れることそのものが好きじゃない。とはいえ国家は必要だし云々ってことを少しこれから考えてみようと思う。

 

ねむれないことなど

大学の講義の発表の準備のためにここ一ヶ月ずっとカント読んでる。定言命法でずっと悩んでられる、考えてられるんだからやっぱりカントは偉大だ。一生遊んで暮らすためには莫大な金がいるけど、一生考えて暮らすためにはひとつの概念だけでいいんだから学問てか哲学はそういう意味でも精神の食物なんだなとおもう。

悩んだり考えたりするのは遊ぶよるもやはり負担になることのようで、ずっとここ半年くらい不眠症である。不眠症といっても眠られないというわけではなくて、眠りのサイクルが人類が宇宙論をもつより前くらいカオスなことになってる。秩序がない。ぐちゃぐちゃ。いまも眠られないし本を読むにも意識がぼやけてるしでやることなくて適当にキーボード叩いている。

本を読むとか考える以外のことに関心が向かなくなってきた。ゲームやアニメや映画鑑賞や音楽で得られる快楽がどうにも突き詰めれば同一のものに考えられてきた。あたらしくでた新作のゲーム、ジャンルがちがうゲームをやったときに得られる快楽の種類がちがうことを信じているからそこに時間を費やしても虚しくならないわけで、得られる快楽や収穫がどうにも同じものだと感じてしまうようになったときには、もはやそこに時間やエネルギーを費やすのは無為なことにおもえてならない。

日々の生活、突き詰めれば生きるということそのものに対しても虚無感を感じずにはいられない。未来にせよ過去にせよ、一日一日の生の連なりのモノクロさというか表面は変わっているように見えても実質の核の部分は同一に感じられる。バリエーションがない。現実を生きることから得られる快楽をもはや全然欲していないし、ゲームや音楽のようなバーチャルな世界から得られる快楽もやはり同一なものに思えるからあえて求めようとはおもわない。現実にもバーチャルにも逃げ場をなくしたのならば、残るのは睡眠のなかで見られる夢だけになるが、それは突き詰めれば死とさほど変わらない。無限の眠りが死なのだから。

とはいえよくよく考えればぼくが虚無感を感じるものはエンタメとしてのバーチャルなのであって、芸術めいたところにはやはりかすかだけど期待をもっている。巨大な建築物たる大長編小説みたいなものを読むことや書くことが残された最後の希望なのだとおもってる。ひとつひとつのシーンは退屈な毎日の生活そのものなのだけど、それを現実にはありえない密度と強度となによりも大量に積み重ねていって、ある量を超えたあたりで作者にもわからない神秘性をもつ繋がりが生まれる。啓示はつまりそういうことだとおもう。大量に思考や想像を重ねていって、あるときに突然あきらかになる。啓示はすなわち恩寵。この一瞬のために自分は意味を感じられない日々を重ねてきたのだ、逆に言えばいままでの意味のない日々はこの一瞬のためにいま意味のあるものに変わったのだ、という確信を得ることがいまの長期的な目標になっている。

思考や想像を積み重ねる点で人類が所有している手段のなかで圧倒的に優れているのは読書だとおもう。活字を重ねることで意識に広がる思考や想像の密度たるや、映像とは比べものにならない。もちろん身体が介在しないからリアルな経験とはその強度で劣るのが難点だけど、リアルで得られる経験なんてものは今の時代全部資本主義の希釈液みたいなものだし、リアルな世界で上昇の比喩で語られるものは資本主義の社会のなかでの地位の話ばかりで辟易してるしで、もうなにもリアルには期待していない。金がほしいわけじゃない。生活するために必要な純粋なコストのポジションしかぼくの中では占めていない。もっと精神的な、どちらかといえば神秘的なものを求めている。かといって宗教なんてまっぴらごめんだし。リアルで求めるとおかしな人間がよってくること請け合いだから、言語の世界で求めて探求するほかない。そういう意味での哲学だし物語だとおもってる。

もう眠らないといけない。バイトがあるから。生きることは純粋に辛いことだとしか思えない。とくにバイトに行くと痛感する。街の生き辛さたるや、音は耳を劈くし、目に入るものには不快感を感じざるを得ないし、街を歩く人々の服やら表情を見るとどうにも生きる気が削がれる。ほんとうに世も末だ、いや末なのはぼくの方なんだろうけど、かといって死ぬわけにもいかずに、希望もなく生きている。

幸福になるために人は生きていのだ、という前提を捨てることが重要になってきた。居心地の良さ、気持ちよさ、楽しさ、快感、そういうもののために生きているのだという前提を採用していては、苦しい人生にはもはや微塵も価値がない。したがってさっさと死ぬべしという結論にいたってしまう。幸福ではない、法則のために生きているのだ、というカントの発想を取り入れることを考えている。法則とその遵守と法則にたいする尊敬による生き方。幸福になるためにではなくて、幸福に値する人間たらんとすること。少し発想を転換してみる必要にかられている。