nimem’s blog

雑念の墓場

ねむれないことなど

大学の講義の発表の準備のためにここ一ヶ月ずっとカント読んでる。定言命法でずっと悩んでられる、考えてられるんだからやっぱりカントは偉大だ。一生遊んで暮らすためには莫大な金がいるけど、一生考えて暮らすためにはひとつの概念だけでいいんだから学問てか哲学はそういう意味でも精神の食物なんだなとおもう。

悩んだり考えたりするのは遊ぶよるもやはり負担になることのようで、ずっとここ半年くらい不眠症である。不眠症といっても眠られないというわけではなくて、眠りのサイクルが人類が宇宙論をもつより前くらいカオスなことになってる。秩序がない。ぐちゃぐちゃ。いまも眠られないし本を読むにも意識がぼやけてるしでやることなくて適当にキーボード叩いている。

本を読むとか考える以外のことに関心が向かなくなってきた。ゲームやアニメや映画鑑賞や音楽で得られる快楽がどうにも突き詰めれば同一のものに考えられてきた。あたらしくでた新作のゲーム、ジャンルがちがうゲームをやったときに得られる快楽の種類がちがうことを信じているからそこに時間を費やしても虚しくならないわけで、得られる快楽や収穫がどうにも同じものだと感じてしまうようになったときには、もはやそこに時間やエネルギーを費やすのは無為なことにおもえてならない。

日々の生活、突き詰めれば生きるということそのものに対しても虚無感を感じずにはいられない。未来にせよ過去にせよ、一日一日の生の連なりのモノクロさというか表面は変わっているように見えても実質の核の部分は同一に感じられる。バリエーションがない。現実を生きることから得られる快楽をもはや全然欲していないし、ゲームや音楽のようなバーチャルな世界から得られる快楽もやはり同一なものに思えるからあえて求めようとはおもわない。現実にもバーチャルにも逃げ場をなくしたのならば、残るのは睡眠のなかで見られる夢だけになるが、それは突き詰めれば死とさほど変わらない。無限の眠りが死なのだから。

とはいえよくよく考えればぼくが虚無感を感じるものはエンタメとしてのバーチャルなのであって、芸術めいたところにはやはりかすかだけど期待をもっている。巨大な建築物たる大長編小説みたいなものを読むことや書くことが残された最後の希望なのだとおもってる。ひとつひとつのシーンは退屈な毎日の生活そのものなのだけど、それを現実にはありえない密度と強度となによりも大量に積み重ねていって、ある量を超えたあたりで作者にもわからない神秘性をもつ繋がりが生まれる。啓示はつまりそういうことだとおもう。大量に思考や想像を重ねていって、あるときに突然あきらかになる。啓示はすなわち恩寵。この一瞬のために自分は意味を感じられない日々を重ねてきたのだ、逆に言えばいままでの意味のない日々はこの一瞬のためにいま意味のあるものに変わったのだ、という確信を得ることがいまの長期的な目標になっている。

思考や想像を積み重ねる点で人類が所有している手段のなかで圧倒的に優れているのは読書だとおもう。活字を重ねることで意識に広がる思考や想像の密度たるや、映像とは比べものにならない。もちろん身体が介在しないからリアルな経験とはその強度で劣るのが難点だけど、リアルで得られる経験なんてものは今の時代全部資本主義の希釈液みたいなものだし、リアルな世界で上昇の比喩で語られるものは資本主義の社会のなかでの地位の話ばかりで辟易してるしで、もうなにもリアルには期待していない。金がほしいわけじゃない。生活するために必要な純粋なコストのポジションしかぼくの中では占めていない。もっと精神的な、どちらかといえば神秘的なものを求めている。かといって宗教なんてまっぴらごめんだし。リアルで求めるとおかしな人間がよってくること請け合いだから、言語の世界で求めて探求するほかない。そういう意味での哲学だし物語だとおもってる。

もう眠らないといけない。バイトがあるから。生きることは純粋に辛いことだとしか思えない。とくにバイトに行くと痛感する。街の生き辛さたるや、音は耳を劈くし、目に入るものには不快感を感じざるを得ないし、街を歩く人々の服やら表情を見るとどうにも生きる気が削がれる。ほんとうに世も末だ、いや末なのはぼくの方なんだろうけど、かといって死ぬわけにもいかずに、希望もなく生きている。

幸福になるために人は生きていのだ、という前提を捨てることが重要になってきた。居心地の良さ、気持ちよさ、楽しさ、快感、そういうもののために生きているのだという前提を採用していては、苦しい人生にはもはや微塵も価値がない。したがってさっさと死ぬべしという結論にいたってしまう。幸福ではない、法則のために生きているのだ、というカントの発想を取り入れることを考えている。法則とその遵守と法則にたいする尊敬による生き方。幸福になるためにではなくて、幸福に値する人間たらんとすること。少し発想を転換してみる必要にかられている。