nimem’s blog

雑念の墓場

高貴たらんとせよ

就活をしていると自分の考え方をほとんど強制的に社会的な常識の範疇の中に押し込めなければならなくなる。これはおかしい、どうしてこんなことをせねば聞かれねばならないのかと疑問に思い始めればきりがないしそのような疑念を持っている時点でエントリーシートなり面接なり動画なりにあらわれてしまうから、すぐに判断停止どこか遠くに消し去ってしまおうとする。消し去ることに慣れてくれば就活はさほど苦痛にならなくなる。

大学生活でなにをやってきたのかを正直に書いたり述べたとしても、社会に働く人事担当の人間に正確に伝わるとは考えにくい。かれらは表向きはあなたについて正直に誠実にありのままをぶつけてくださいと笑顔で言っていたとしても、実際のところ現実でかれらがやっているのはあまりにも大量につきつけられる同じような文面の文章の審査である。落とす人間、審査を通す人間を複数人のチームでこなさなければならないし、その審査が不公平になってはならない。Aが見れば不合格だがBに選ばれていれば合格だった、のような基準の不統一は好ましくないはずだ。だからある一定の機械的な基準を設けてそこに合致するか否か、または減点対象となる逸脱があるかどうかを判定の基準として採用されがちだろう。しかもその基準は非公開である。だから就活をする人間としてはどんなものなのか見えない基準・採点者の批判を常に想定しながら言葉を書き話し行動をしなければならなくなる。そのような窮屈な状況で果たしてどれだけの人間が正直にありのままの自分なるものを表現することができるというのか。

自分の価値基準が社会的・市場主義的な価値基準におきかえられていく。利益を生み出すことができる優秀なビジネスパーソンになること、その素質ありと認められるように自己の過去を改ざんする自己分析なる洗脳、いまある社会的基準に準拠する宣誓としての面接における自己表明。厳格に規定された服装なり態度なりを身にまとうことは、就活生になるために必要な条件とされる。既存の社会的な慣習に対して不服従の態度を取る人間はそもそも就職という選択肢は基本的にあたえられていない。少なくとも新卒採用という枠組みにおいては。

就活は通過儀礼だとどうにか肯定しながら私は就活をやってはいるものの、その実内心では適性検査なり不適性検査なりを受けるたびに結局は思想試験じゃないかと思ってしまう。社会全体が一種の官僚機構で一定の常識という共通の思想に賛同する人間だけが入ることが許される、いや共通の思想の範囲の外にある人間を排除する仕組みの上に成立しているのではないかとか。フーコーが言っていることは机上の空論なり単に理論ではなく、現実そのものだったのだと痛感する。

高貴たらんとせよ。みずからの生き方をキャリア形成思想なんかに乗っ取られてはならない、と思う。べつに生きがいだか幸福だかを会社や労働に求めちゃいないんだよ、こっちは、生活するために金が必要だからしぶしぶ就活なんてものをやってるし、べつに会社の理念に心の底から共感するなんてことはないし、なんなら自分がESに書いたり面接でしゃべったイイコトは就活向けに改ざんしたものなんだよ、ほんとうの自分なんてものが仮にあったとしても就活で表現するなんてことはできるわけないじゃないか、なにせあんたらは権力でもって大学生に就活を強制してやらせてるんだし、就活のシステム自体経団連だか金と仕事を持った連中が勝手につくって大学生に押し付けてるだけなんだからさ、とか思ったりはしない。もしこんなことを思って就活をしているのならば、まちがいなくどこにも就職ができやしない。いや、少なくともまともな会社には。

高貴たらんとせよ。一本、金や権力にはまるで関係しない別軸の人格を持たなければならないし、そのためにみずから目的をもって強度ある生活を送らなければならない。たぶんこれは困難極まりない。社会や人間関係は自分の大切な感情や人格を保てなく成るほど強烈なダメージを私に与えるだろうから、いや現に与えている。

高貴たらんとせよ。高貴たることができずに奴隷状態に堕した暮らしを送らねばならないのならば、死んだほうがよっぽどよい。死ぬのはごめんだから、高貴たらんとせよ。