nimem’s blog

雑念の墓場

ゲーム考

社会はゲームに過ぎないてな言い方を哲学の本読んでるとちょいちょい見かけるけど、じゃゲームってなんなのさって理解をじぶんができてるのか疑問に思ったからまじめにゲームしてみる。

生活や人生のリアリティを基礎付けていたものから解放されて、義務だとか価値だとか自我なんてものの現実性はことごとく相対化され打ち消され、生きている実感そのものが希薄になってしまった一年だった。このために生きるという、肝心の人生をかけて追いかける「この」が所詮はフィクションにすぎない、単なる虚構やロマンなのだと確信した。お金や愛もそのうちのひとつ。これらのために人生をかけて熱中して、気がついてたら老いを迎えて成熟した人間になっていた、というふつう一般にいう幸福の外側につまみだされた感じ。疎外。生きることに情熱を注ぎ、正しさや善や知性のために懸命に生きよ的な哲学的・文学的・知的なロマンティシズムに辟易した。すごく冷めた目で見てしまう。円熟した知識人なる人が「知の巨人」らしく書斎づくえの座ってむずかしそうな賢そうな目でこっちを見てるみたいな写真にあこがれなくなった。だからなんなのさ、みたいな。べつに反知性ってわけじゃない。わざわざアンチする必要さえ感じない。対立の外側から冷めた目線を送ることしかできない。

悪い相対主義っぽさがあるのはわかってる。どこかでなにかを選び取って絶対化する必要があるんだと思う。こういう人間になるんだと決意して日々そこにむかって頑張る生活に切り替えないと強度が弱い時間がだらだら過ぎていくだけになる。だからいろいろやってみるしかない。酔えるものが見つかる可能性があるのならそこにかけるべきだし。

とくにゲームやってて思うのは、わからないものがたくさんあるうちはとても楽しい。スキルやアイテムが解放されていくたびに、その組み合わせを思い浮かべてあれもできるこれもできると未来に希望を持てる。わくわくする。だけどすべてのアイテムやスキルや敵の特性がぜんぶわかったとき、可能性は収束してしまう。範囲が確定してしまう。無限に思えた可能性の有限性に気づいたとき、飽きと虚無がやってきてゲームは作業になってしまう。

コンシューマ向けはとくにその傾向が強い。ソシャゲの強みは可能性が無限に強制的に延長させ続けられること。あたらしいキャラ増やしたりアイテム増やしたりが半永久的に続くことが前提になってるゲームだから、いわば終わることのない物語のなかに没入できる。だがそこでやっていることは、ひとつの企業が支配する独裁的な世界のなかで快楽を支給され続けるという、どこかディストピアを感じさせるような物語の世界なのだが。なにせ金すわれつづけるし。

原神にはまってやめることにした。ほかのソシャゲもいじってみた。可能性の範囲がつねに広がり続ける点では生きる希望になりうると思う。月に数万をかけさえすれば絶望や憂鬱から解放されると考えれば、それがギャンブルと遜色ないにしろ、それで生き続けられるのならばいいんじゃないかと思う。とくにぼくはこのソシャゲに没入してしまう傾向がある。金があれば全部つぎ込んじゃうみたいな悪いタイプ。ガチャに弱い。たぶんギャンブル全般に弱い。

もやし生活に陥ってしまったし、どうもソシャゲで広がり続ける可能性の本質がダメージや時間みたいな「数字」依存であることにあきてしまって、やっぱりプレイヤーのスキル依存の可能性に惹かれて今度はふたたびコンシューマーゲームに回帰した。FPSはすごくよき。如実にPSの向上を実感できて楽しい。

ソシャゲとコンシューマのRPGに思うのは、ソシャゲは自我がかんぜんになくなってキャラを育てることに快楽の重点が置かれているのに対して、コンシューマはきっちり主人公っていう自我の向上に重点が置かれてる。これは三人称小説と一人称小説のちがいっぽいなと思った。自我から解放されたいからソシャゲやギャンブルにはまるって構造。すごくわかる。ぼくも「ぼくである」とか「リアルな生活」から逃げられるのならば逃げたいと思うし。まあ逃げることはぜったいにできないけど。

 

本ぜんぜん読まなくなってずっとゲームしてる。あと音楽。活字が、というより「言葉」のなかで生きるのが嫌になった。言葉=人間っていう発想に疑問を覚えるようになった。どうにも言葉っていうインターフェイスから生まれるのは必然的な知の絶対化のような気がしてならない。もう言葉で人間が暮らす必要はないんじゃないかと思う。二千年ものあいだひとは言葉を探求してその成果もたくさんあるんだし、第一せっかくコンピュータがある時代に生まれたんだから、わざわざ言葉っていう曖昧で抽象的な(しかも数字より抽象度が低い)道具に頼らなくてもいいんじゃないのかな。言葉をうまく使える=優れてるって発想自体が旧時代の制度的な遺物な気がする。もう「真理」とか「正義」とか「愛」みたいな言葉を掘りすすめる作業はこりごりだし。言葉に人生を費やす気にはなれなかったりする。とくに哲学。あと文系の「学問」的な態度。これはもう嫌になってしまった。

言葉よりも音にバリエーションと可能性を感じるようになったから、こっちに重点を写そうと思う。あとイメージ。イメージと音の複合がゲームでしょう。知的なロマンにひたってた十代はとうに過ぎ去ったのだ、とか思うね。