nimem’s blog

雑念の墓場

高貴たらんとせよ

就活をしていると自分の考え方をほとんど強制的に社会的な常識の範疇の中に押し込めなければならなくなる。これはおかしい、どうしてこんなことをせねば聞かれねばならないのかと疑問に思い始めればきりがないしそのような疑念を持っている時点でエントリーシートなり面接なり動画なりにあらわれてしまうから、すぐに判断停止どこか遠くに消し去ってしまおうとする。消し去ることに慣れてくれば就活はさほど苦痛にならなくなる。

大学生活でなにをやってきたのかを正直に書いたり述べたとしても、社会に働く人事担当の人間に正確に伝わるとは考えにくい。かれらは表向きはあなたについて正直に誠実にありのままをぶつけてくださいと笑顔で言っていたとしても、実際のところ現実でかれらがやっているのはあまりにも大量につきつけられる同じような文面の文章の審査である。落とす人間、審査を通す人間を複数人のチームでこなさなければならないし、その審査が不公平になってはならない。Aが見れば不合格だがBに選ばれていれば合格だった、のような基準の不統一は好ましくないはずだ。だからある一定の機械的な基準を設けてそこに合致するか否か、または減点対象となる逸脱があるかどうかを判定の基準として採用されがちだろう。しかもその基準は非公開である。だから就活をする人間としてはどんなものなのか見えない基準・採点者の批判を常に想定しながら言葉を書き話し行動をしなければならなくなる。そのような窮屈な状況で果たしてどれだけの人間が正直にありのままの自分なるものを表現することができるというのか。

自分の価値基準が社会的・市場主義的な価値基準におきかえられていく。利益を生み出すことができる優秀なビジネスパーソンになること、その素質ありと認められるように自己の過去を改ざんする自己分析なる洗脳、いまある社会的基準に準拠する宣誓としての面接における自己表明。厳格に規定された服装なり態度なりを身にまとうことは、就活生になるために必要な条件とされる。既存の社会的な慣習に対して不服従の態度を取る人間はそもそも就職という選択肢は基本的にあたえられていない。少なくとも新卒採用という枠組みにおいては。

就活は通過儀礼だとどうにか肯定しながら私は就活をやってはいるものの、その実内心では適性検査なり不適性検査なりを受けるたびに結局は思想試験じゃないかと思ってしまう。社会全体が一種の官僚機構で一定の常識という共通の思想に賛同する人間だけが入ることが許される、いや共通の思想の範囲の外にある人間を排除する仕組みの上に成立しているのではないかとか。フーコーが言っていることは机上の空論なり単に理論ではなく、現実そのものだったのだと痛感する。

高貴たらんとせよ。みずからの生き方をキャリア形成思想なんかに乗っ取られてはならない、と思う。べつに生きがいだか幸福だかを会社や労働に求めちゃいないんだよ、こっちは、生活するために金が必要だからしぶしぶ就活なんてものをやってるし、べつに会社の理念に心の底から共感するなんてことはないし、なんなら自分がESに書いたり面接でしゃべったイイコトは就活向けに改ざんしたものなんだよ、ほんとうの自分なんてものが仮にあったとしても就活で表現するなんてことはできるわけないじゃないか、なにせあんたらは権力でもって大学生に就活を強制してやらせてるんだし、就活のシステム自体経団連だか金と仕事を持った連中が勝手につくって大学生に押し付けてるだけなんだからさ、とか思ったりはしない。もしこんなことを思って就活をしているのならば、まちがいなくどこにも就職ができやしない。いや、少なくともまともな会社には。

高貴たらんとせよ。一本、金や権力にはまるで関係しない別軸の人格を持たなければならないし、そのためにみずから目的をもって強度ある生活を送らなければならない。たぶんこれは困難極まりない。社会や人間関係は自分の大切な感情や人格を保てなく成るほど強烈なダメージを私に与えるだろうから、いや現に与えている。

高貴たらんとせよ。高貴たることができずに奴隷状態に堕した暮らしを送らねばならないのならば、死んだほうがよっぽどよい。死ぬのはごめんだから、高貴たらんとせよ。

レビュースタァライトを観たこと

だいぶ前にオープニングのブシロードの文字と1話の十分くらいを見て、ああソシャゲ系のこのテイストねとわかった気になって見るのやめてたけど、あまりにも退屈で憂鬱だったので暇つぶしくらいにはなるだろうかと思ってみたらこれが見事におもしろくすばらしいアニメだったので、おかげで憂鬱がどこかに消えた気がする。感想を書いておく。

所感は幾原監督テイストだなってのが第一印象。繰り返しの変身アニメーションが快感になる。戦いが終わったときに降りる幕のしわのエロさがよき。わたし再生産シーンの化粧?シーンが病みつきになる。とつぜんメールがくるあたりユリ熊嵐ぽさがある。1話で主人公が外側から乱入してくるあたりには、スタードライバーぽさもあった。どっちにしろ日常パートのなかにメタファー要素をいれこむ話の組み立て方。日常のなかで醸成される暴力的な要素、つまり人間関係のこじれだとか悩みだとかを日常の範囲内でやりくりするのではなくて、それらをぶっとんだメタファーの世界のお話に変換して解決する。

アニメタイトルのフォントがすごくよき。昭和か大正あたりのレトロさを感じさせる。どうしてこのセンスあふれるフォントを見てちゃんと視聴しなかったのか、過去の自分を攻めたくもなる。あと「スタァ」って日本語すごくいいね。レトロだけどあたらしさを感じる。

2話あたりで「父兄」って言葉がでてきた。いまでは死語とかしたけど、ぼくが学生のころに所属してたスポーツチームではよく使われてた。表現が不適切ではないか、男女平等に反するみたいなしょうもないケチをつける人はさすがにいなしぼくも当然そんなくだらないこと言わないけど、ここを「保護者」みたいな表現にしていたらやっぱし合わないよなと思いつつ見てた。このアニメぜんたいてきに言葉がきれい。とくにきれいだと思ったのは8話のきらめきを失ったあとの回想シーンのセリフ。

「減っていた130グラム。いつものハンドクリームひと瓶。マクベスの文庫本。2ポンド硬貨11枚。腎臓ひとつぶんの重さ。なにがなくなったの、わたしから。どうしちゃったんだろ、わたし。なにもかんじない、すごくせかされていた、すごくまえのめりだった気がするのに、いまはなにも、なにもおもいだせない。」

すごいきれい。これを三森すずこさんが演じるんだからなおさらきれい。これ書いたひとかなり熟考したんじゃないかな。言葉の語感がきもちいい。さすが演劇とでもいうべきなのか。てか三森さんの演技ってぼくすごい好きなんだよね、個人的な好みだけど。魅力を感じて最近三森さんが出てたアニメをディグって観てた。てーきゅうにも出てたのね笑。あのテイストの声すごく好きだな。あと魔女の旅の声も。関係ないけど、てーきゅうを深夜にすごい憂鬱で眠れないときに見てたんだけど、すさまじい抗憂鬱作用なんだよね。とくに2期のオープニング。三森さんじゃないけど、アニメーションから音楽からなにからなにまで、このガラクタ感というのかな、子供の頃に玩具箱のなかをがちゃがちゃいじる楽しさを彷彿とさせる抗憂鬱作用。リンク貼るけど、年齢制限かけられてるのか笑。さもありなん、てか笑。

youtu.be

声優、というよりも舞台女優・俳優って感じの演技や歌だった。セリフの文体っていうのかな、いかにもアニメって感じの萌えぽい声のテイストではなくて、もちろんそこも含んでいるけど、そこにプラスアルファ重み?演劇ぽい独特の強度が感じられるセリフの声だし歌だった。正直にいえば、一話あたりでは「あれ?なんか声優微妙じゃない?」って思いながら見てて、エンドクレジットで三森さん以外のメインキャストのひと知らない人だったからそういうことかとか思ってたけど、以後みていくにつれてあれ?歌、驚異的にうまくないか?とかセリフに重みがあるなとか思って、ひょっとすると演劇関係のひと起用してるのかと思って調べたらやっぱりそうだった。キャストは全員演劇にかかわったことのある人だった。

津田さんが驚異的にうまいのはもう何もいう必要のないことだとして笑、メインの舞台少女?の9人の歌がすさまじくうまい。重みと迫力がある。とくに天堂真矢のシーンの歌がもう驚異的にうまいし噛み合ってる。若干アニメーションっていう表現を超えてる感も感じた。これは演劇の強みなのかな。迫力がすごい。アニソンぽい柔らかい感じもすきだけど、この演劇の迫力を感じられるアニメは唯一無二なんじゃないのかな。

 

肝心の物語についてだけど、メタファーに変換された要素をふたたびリアルな「意味」に再構築する作業ってぼくは好きじゃないからあまり考えないし考えられない。幾原派の源流たる村上春樹よろしく「メタファーはメタファーのままぐいと飲み込んでしまう」のがいいんじゃないのかなと思う。てなわけで、たとえば登場人物のセリフがどういう意味なのかなんて問題はとくに考えないし興味もわかなくて、ただそのままいいなあと思いつつ楽しめばいいと思ってる。

けどひとつ気になったのは、バナナだけ二刀流ってせこくないか?ってこと笑。小さな果物ナイフみたいな武器でこっちは戦ってるのに、相手が長い刀と脇差の二刀流ってそりゃないだろみたいなことを、まあ半分冗談だけど思った。どうしてバナナだけ二刀流を使えるのか?ってことをいろいろ考えながら2週目見てみたけど、結局よくわからなかった。とくに理由はないのかな。強いていえば時計の長い針、短い針がモチーフになって長い刀を利き手の右に、短い脇差を左手で持ってるのかなと思ってみたりしたけど、べつにこのアニメ戦闘シーンで伏線をどうこうするような、つまり各人物の戦闘上の強さの相対性や比較で物語をすすめてるわけじゃないからたいした問題じゃないのかなと結論づけた。バトル漫画ならそうした戦闘上の強さのバランスが大事になってくるだろうけど、このアニメはべつにあいつがこいつより強い、いやもっと強い奴がいるぞみたいな相対性の連鎖でお話を盛り上げてインフレさせていくものじゃないからね。

 

総括としてはすごくおもしろい力のあるアニメだった。まちがいなく傑作のなかに入る。ただ幾原監督とはちがって、暴力とか死とかの重たいテーマを取り上げることはしてなくて、ただ純粋に夢っていうテーマを膨らませたものだった。そこはかなりちがう。だから魂が揺さぶられる、みたいな強烈な感動はない。でもはっきりいってそういう重たい物語よりも、実際のところはこういう軽いテーマで汚いテーマを扱わずに、ただ夢や希望を与えてくれる完成度の高い作品のほうが、生きていく手助けになると思う。重たい物語って、生きていく夢や希望というよりは、死ぬ準備みたいな側面の方が強いと思うし。

ゲーム入門、今冬やったゲームたち

ゲームをやろうと思って有名どころや興味持ったタイトル買った。無料のものも含む。

・APEX
バトロワシューティングの有名タイトル。はじめてまともにやったFPS。一ヶ月くらいはまった。ぜんぜんうまくならなかったけどおもしろかった。

ポケモン剣盾
冬てか夏に買って一ヶ月くらいランクマやってた。マスター上がるくらいまでだけどおもしろかった。色違い厳選もやってみた。確率に時間を費やすのギャンブルぽくて非日常でよき。現実逃避だけど。

どう森
あまりはまらなかった。どっかブラックユーモア感じるシステムだと思った。動物網でなぐれるシステムなのにもたまたま気がついて驚いた。

・原神
二ヶ月くらいはまった。かなり課金した。がっつりソシャゲだった。女性をメイン・ターゲットにしてるゲームなのかなって印象は受けた。男はサブターゲットていうか。まあ男はたまに可愛い萌えぽいキャラだしとけば釣れるだろ的な印象。まあつられるんだけどね。

・ライザのアトリエ
原神の元ネタってこの辺だよなと思って買ってやってみたけど、システムのUIのパチスロ感が苦手だし、そんなにはまらなかった。女の子の太ももやデザインが、パチスロよろしくあざとすぎる気もする。

・魔女迷宮
新ジャンル開拓だってやりはじめたけど、どうもこの手のRPGは苦手みたい。主人公の女の子の声は好きだったな。あと物語にふつうにエロ入ってきて好印象。ただ作業っぽい迷宮攻略のモチベになるだけの物語ってわけじゃないかな。

ゼルダ、ブレスオブワールド
いわずとしれたオープンワールド。あまりはまらなかった。料理の効果音すごい中毒性あるね。

FF14
ゲームシステムの作り込みはさすがといったところ。MMOにハマるかなと思ったけどはまらなかった。どうもRPGってぼくにはハマらないみたい。

PSO2
戦闘スタイリッシュでいいね。弓と刀で闘う侍ぽいクラスでやってた。一週間くらいはまってずっとレベリングしてた。ただMMO全般に言えるんだけど、それして何になるのだ的な虚無に陥ってやめた。虚無が快楽をうわまわるというか。あとこのゲームもどっかパチスロっぽいデザインだった。キャラとかやけにメカめかしい。男性メインぽいな。あと声優すごく豪華でびっくりする。調べたらアニメもあったらしい。無課金でもふつうにフェアに楽しめるよきゲームだと思ったな。

・ニーア
1週目だけやった。音楽すごい。悪役がスクエニぽかった。2Bエロいね。よき。ただ弾幕シューティングがあまり好きじゃないのと、育成要素があまりないのがあっさりしてる。ミッションやり直しとかできないし、レベリング不要だし。まあソシャゲじゃないし、それくらいのバッサリさが売りのコンシューマ向けのゲームなんだろうけど。戦闘の快感たるや、すさまじい。ジャスト回避の効果音中毒性ある。武器エロい。

・ぷりコネ
ソシャゲってなんぞやと思ってやってみた。ガチャとソシャゲの代名詞的な有名タイトル。アメーバピグを彷彿とさせるギルド?システムがあった。ガチャ限リセマラをひさしぶりにやった。リセマラって、てかガチャを引くのって快感だよね。ランク20?くらいのすべてのゲームシステムが解放されるまでやった。なるほどこういうゲームなのかと理解してやめた。これはまったらドツボだわ笑。でもこのゲームのキャラのために課金して、そのために働くっていう生活って快楽として完結してて良きだと思ったな。下手に絶望して俯くぐらいならソシャゲで上向いて楽しい生活ってのも悪くない。まあ哲学者に言わせれば「奴隷道徳」なんだろうけどさ。

・コードヴェイン
実況は見たことあった。いわゆるダークな死にゲー。ダクソとかそっちなのかなジャンルとしては。あまりはまらなかった。武器、あまりえろくない。てかこういうダークなゲーム、任天堂にあまりないなと思った。路線がちがうのかな。

COD cold war
最近もやってる。楽しい。APEXほど長くないし個人競技だしさくっとできるし楽しい。ただすごいむずかしいのと、自分の弱さがはっきりわかる。それも楽しい。

・モンハン
3rdG以来。まあたぶんハマらないだろうと思ってたけどやっぱりはまらなかった。なんだろ、モンハンってあまりワクワクしないタイプの人間なのかな。モンスターっていうもの対して魅力を感じないというかな。斬撃や撃破の快感を感じない。なんでだろ。

 

こんなところかな。今年の後半は集中的にゲームをやった。ゲームに生きる意味や価値を見出せるんじゃないかって希望を追求したかった。だから純粋にゲームが好きでやったってわけじゃない。もともとぼくはゲームってそれほど好きじゃない。べつに嫌いじゃないんだけど、学生時代もぜんぜんゲームやってない。

リアルな生活が空虚だからゲームで補完しようって発想にしっくりくるのは、やっぱりソシャゲだったな。リアリティに金をかけて充実させるのではなくて、ゲーム内のキャラなり自己の分身なりに金をかけて充実させるわけだからね。リアルとはべつの場での向上が未来への希望につながるわけで、あたらしいイベントなりキャラ実装なりアイテム実装なりを心待ちにして生きていく、そのためにお金を稼いでくる、そういう生活スタイルがソシャゲガチ勢?廃人たちの生き方なんだと思う。で、金や課金ではなくて、時間を注ぎ込むことでゲーム内での向上をはかるのが月極タイプのMMOだとおもう。レベリングとか装備とかを充実させるのは、課金やガチャとはちがって純粋に時間のやり込みだし。

アペもポケモンも、基本的にランクマッチって概念で順位を高めていくのもプレイヤースキルを向上させることでゲーム内世界での地位上昇の快感を味わうってことだと思う。課金や時間が主たる変数になってるのとはちがって、このあたりはpsメインなんだね。FPSとかいわゆるeスポーツが成立するのはここだろうなと思う。まあ「スポーツ」って呼び方は語源とだいぶ違う気もするけど、プレイヤーのセンスやスキルを伸ばすのに主眼が置かれてるのはソシャゲやMMOとはちがうとこだとおもう。

だからゲームは1)ガチャ、確率、課金、2)時間、3)PSの三要素を変数にとったリアルとはべつの次元の世界での地位向上の快感を味わうものだってのがぼくなりのまとめかな。リアルな金やら時間やらをゲーム内のシステムに注ぎ込むことで、リアルでは抵抗の大きな地位向上をさくっとシミュレーションできるもの。

 

ゲーム内のルールなりアイテムの効果なりの決定権は運営にあるわけで、プライヤーが自由に操作できないってのはおおきな気づきだったな。あたりまえのことだけど、これがかなりでかい。あとゲーム内の世界は閉じてる。その内部でやれることはかぎられているわけで、無限の可能性があるわけじゃない。アップデートで世界を拡張できるわけじゃなくて、ゲーム性っていうひとつの公理体系の拡張にすぎない。ひとつのゲームが人生のエンドコンテンツになることができないのはここに原因があると思う。このゲームやってれば一生が終わっちゃうよってほどの巨大さはゲームにはない(少なくともぼくにとっては)。かならず飽きがくるし、ゲーム内でやれることがやりつくされるときがくる。ひとがアイテムなりキャラなりを追加しなくちゃいけないわけで、勝手に「発見」されるなんてことはないわけだし。

ゲームが人生のメインコンテンツになりうるのか?って点についてはいまのところならないような気がぼくのなかではしてる。ぼくはゲームに愛を注いで生きていけるのか?って考えたとき、やっぱそんなに没入できないなって答えが返ってきちゃう。

ただまだまだゲームの世界は広いので、来年もとい今年はゲーミングPCを買ってマイナーなゲームをディぐるというのがいちおうの目標。

どうのこうの言って音楽や本ほどの巨大さがゲームにはない気がしてる。抽象性とオープン性ではゲームって音楽や本には勝てないから。あとじぶんひとりでさくっとつくれるって点でも音楽や物語は強いのかな。ゲームってつくれるのか実際にやったことないからやってみるのもよきかも。

アサシンプライド、武器を持った女の子のエロさについて

どうしてこうなったアニメ大賞どうどう一位のアニメ。4話あたりまですさまじく面白くて、OPがとくによくておもしろく見てた。BGM多用しないで静かな場面が淡々と続くのに惹きつけられる作画や脚本や演出が素晴らしいと感心しながら楽しく見てたのに、5話あたりから作画が壊れてきて脚本や演出もお粗末の手本みたいなものになってしまって、結局8話あたりまで飛ばしながら見てたけどついにみるのやめた。もったいない。ほんとにもったいない。列車に乗って研修に行ってそこで衝撃の事実があきらかになる、ていうこの話の一番の盛り上がる場面に至るまでの話の進め方が急すぎたし、肝心のいい場面の見せ方もひどいしで、せっかく感動できる場面があるお話なのに台無しになっててもうすごい残念だった。A1あたりがちゃんと作ってくれてたらまちがいなく泣いてたと思うんだけど。

全体的にはラノベのテンプレみたいな話の進め方をする話なんだけど、前半の演出や作画がよかったのとキャラがぼくの好みだったこともあって前半は楽しく見れた。後半がお粗末だったのが残念通り越して怒りや悲しみを覚えるくらい残念な仕上がりだった。ちゃんとつくれば人気もでたろうにと思う。調べてみたら5話あたりでプロデューサーとか作画監督かわってたりでなにかいざこざがあったような雰囲気漂ってる。いいアニメをつくろうっていう気概を感じる前半やOP・EDとはちがって、後半はとりあえず動けばいい的な感じで残念だった。もっとも、資金や人間関係とかいろいろあるんだろうけど、いち視聴者としては残念だった。

あと崩し方ね。べつに崩れてもいいとぼくは思ってる。味のある崩し方ならジャンクぽい楽しさがあってそれはそれでいい。崩してることを自覚しながら崩すっていうか。崩れてるんだけどおもしろくしようっていう工夫が感じられるものは楽しめる。魔王様なんとかって最近のアニメはおもしろかったし。でもこのアサシンプライドの崩し方は最悪だった。なにもおもしろくない。脚本も演出にも工夫のくの字もない。残念だった。話はけっこうラノベの面白さがつまってていいものだったのに。

 

まあアニメのいざこざとかはどうでもいい。OPのエロさについて書きたい。

youtu.be

とにかくOPの女の子の見せ方がうまい。武器をもった女の子のエロさをここまで描けてるアニメーションにはなかなかお目にかかえれない。大剣、片手剣、あと投げる輪?、武器を持ってるシルエットだったり、ちょこっと動いたりするシンプルなあにめーしょんなんだけど、とにかくエロい。エロいっていったってポルノ的な安っぽい下半身刺激しときゃいいだろ的なエロじゃなくて、もっと深いところのエロだと思う。小柄で胸の小さな華奢な女の子が武器を持つって、もう最高にエロいでしょう。あとリピの気持ちよさね。音楽もそうだけど、テクノっぽい音楽のリピートにあわせてアニメーションも小さな動作を最初と最後の方でリピートさせてるあたりエロさと中毒性をかきたててる。そんなに多くの絵をつかってるわけじゃないのに、このエロさは(たぶんそんなに資金がない中で)アニメーターが絞り出したアイデアでしょう。評価されるべきだと思う。ただ胸の大きな女の子にエロい声出させたりエロい動きさせたりするインスタントで下半身的なエロさとはべつの次元のエロさもやっぱり必要だと思うし、なんならアニメーションのエロさの強みはこの深い場所のエロさでこそ発揮されるものでしょう。ただ体つきが下半身にささるようにデザインすればいいってわけでなくて、体つきと武器とその動作の組み合わせから生まれるエロさがここにあってすさまじく中毒にハマった。アニメの前半は、どうやらwhitefoxが手伝ってるらしくて、やっぱりそういうエロさを感じさせる傑作的なアニメーションに仕上がってて引き込まれた。後半はもはやなにもいうまい。

あと武器と女の子といえばニアが浮かぶかな。こっちは胸の大きな女の子だけど。武器の振り回し方から立ち振る舞いまで、日本のアニメの女の子とはちがったエロさがある。スクエニって日本の会社だけど、日本のアニメキャラ的な可愛さじゃなくてちょっとリアリティがあって優雅なエロさを追求してるってイメージある。2bもう全部エロいのね笑。立ち止まり方からもうすべて。

youtu.be

やっぱりエロさって大事だなと思う。ゲームでも、べつに女の子とかのビジュアルじゃなくても敵を武器でやっつけるゲームは斬撃音の快感とか、FPSだったら武器の反動の気持ちよさとか、やっぱり気持ちいいって感じさせる音なりイメージを詰め込んでこそのコンテンツだよなと思う。やっぱり快楽って大事でしょう。くそげーとかくそあにめってやつは完成度ってよりは、快楽がまるで得られないもののことを指すんだと思う。だとすればアサシンプライドは少なくとも全体としてみればくそアニメではないはず。前半と、OPは快感だったわけだし。でも残念なことにかわりはないけど。

 

ゲーム考

社会はゲームに過ぎないてな言い方を哲学の本読んでるとちょいちょい見かけるけど、じゃゲームってなんなのさって理解をじぶんができてるのか疑問に思ったからまじめにゲームしてみる。

生活や人生のリアリティを基礎付けていたものから解放されて、義務だとか価値だとか自我なんてものの現実性はことごとく相対化され打ち消され、生きている実感そのものが希薄になってしまった一年だった。このために生きるという、肝心の人生をかけて追いかける「この」が所詮はフィクションにすぎない、単なる虚構やロマンなのだと確信した。お金や愛もそのうちのひとつ。これらのために人生をかけて熱中して、気がついてたら老いを迎えて成熟した人間になっていた、というふつう一般にいう幸福の外側につまみだされた感じ。疎外。生きることに情熱を注ぎ、正しさや善や知性のために懸命に生きよ的な哲学的・文学的・知的なロマンティシズムに辟易した。すごく冷めた目で見てしまう。円熟した知識人なる人が「知の巨人」らしく書斎づくえの座ってむずかしそうな賢そうな目でこっちを見てるみたいな写真にあこがれなくなった。だからなんなのさ、みたいな。べつに反知性ってわけじゃない。わざわざアンチする必要さえ感じない。対立の外側から冷めた目線を送ることしかできない。

悪い相対主義っぽさがあるのはわかってる。どこかでなにかを選び取って絶対化する必要があるんだと思う。こういう人間になるんだと決意して日々そこにむかって頑張る生活に切り替えないと強度が弱い時間がだらだら過ぎていくだけになる。だからいろいろやってみるしかない。酔えるものが見つかる可能性があるのならそこにかけるべきだし。

とくにゲームやってて思うのは、わからないものがたくさんあるうちはとても楽しい。スキルやアイテムが解放されていくたびに、その組み合わせを思い浮かべてあれもできるこれもできると未来に希望を持てる。わくわくする。だけどすべてのアイテムやスキルや敵の特性がぜんぶわかったとき、可能性は収束してしまう。範囲が確定してしまう。無限に思えた可能性の有限性に気づいたとき、飽きと虚無がやってきてゲームは作業になってしまう。

コンシューマ向けはとくにその傾向が強い。ソシャゲの強みは可能性が無限に強制的に延長させ続けられること。あたらしいキャラ増やしたりアイテム増やしたりが半永久的に続くことが前提になってるゲームだから、いわば終わることのない物語のなかに没入できる。だがそこでやっていることは、ひとつの企業が支配する独裁的な世界のなかで快楽を支給され続けるという、どこかディストピアを感じさせるような物語の世界なのだが。なにせ金すわれつづけるし。

原神にはまってやめることにした。ほかのソシャゲもいじってみた。可能性の範囲がつねに広がり続ける点では生きる希望になりうると思う。月に数万をかけさえすれば絶望や憂鬱から解放されると考えれば、それがギャンブルと遜色ないにしろ、それで生き続けられるのならばいいんじゃないかと思う。とくにぼくはこのソシャゲに没入してしまう傾向がある。金があれば全部つぎ込んじゃうみたいな悪いタイプ。ガチャに弱い。たぶんギャンブル全般に弱い。

もやし生活に陥ってしまったし、どうもソシャゲで広がり続ける可能性の本質がダメージや時間みたいな「数字」依存であることにあきてしまって、やっぱりプレイヤーのスキル依存の可能性に惹かれて今度はふたたびコンシューマーゲームに回帰した。FPSはすごくよき。如実にPSの向上を実感できて楽しい。

ソシャゲとコンシューマのRPGに思うのは、ソシャゲは自我がかんぜんになくなってキャラを育てることに快楽の重点が置かれているのに対して、コンシューマはきっちり主人公っていう自我の向上に重点が置かれてる。これは三人称小説と一人称小説のちがいっぽいなと思った。自我から解放されたいからソシャゲやギャンブルにはまるって構造。すごくわかる。ぼくも「ぼくである」とか「リアルな生活」から逃げられるのならば逃げたいと思うし。まあ逃げることはぜったいにできないけど。

 

本ぜんぜん読まなくなってずっとゲームしてる。あと音楽。活字が、というより「言葉」のなかで生きるのが嫌になった。言葉=人間っていう発想に疑問を覚えるようになった。どうにも言葉っていうインターフェイスから生まれるのは必然的な知の絶対化のような気がしてならない。もう言葉で人間が暮らす必要はないんじゃないかと思う。二千年ものあいだひとは言葉を探求してその成果もたくさんあるんだし、第一せっかくコンピュータがある時代に生まれたんだから、わざわざ言葉っていう曖昧で抽象的な(しかも数字より抽象度が低い)道具に頼らなくてもいいんじゃないのかな。言葉をうまく使える=優れてるって発想自体が旧時代の制度的な遺物な気がする。もう「真理」とか「正義」とか「愛」みたいな言葉を掘りすすめる作業はこりごりだし。言葉に人生を費やす気にはなれなかったりする。とくに哲学。あと文系の「学問」的な態度。これはもう嫌になってしまった。

言葉よりも音にバリエーションと可能性を感じるようになったから、こっちに重点を写そうと思う。あとイメージ。イメージと音の複合がゲームでしょう。知的なロマンにひたってた十代はとうに過ぎ去ったのだ、とか思うね。